ベルリンは、第二次世界大戦において最も重要で最も暗い歴史を持つ街です。ですが、だからこそベルリンの人々はこの出来事を忘れず、今でも弾丸や発射物などの跡が残されているのです。ベルリンでは、歴史のどの場面においても必ずと言って良いほどナチス政権の話が出てきます。この街ではそのことを語り継ぎ覚えておくために、石碑や起こったこと全てが記された書物が残されています。
この悲惨な出来事の現場となった場所について、紐解いていきましょう。実際その場所に行き、多くの人々が戦争中のテロによって生死の境を彷徨ったことを考えるのは大変なことかもしれませんが、それが大きな教訓となります。ベルリンは、訪れた人々に悲惨で悔やまれる出来事を思い出させてくれるのです。旅は楽しむことも大切ですが、このような観察や学習をすることも大切です。
ベルリンの地下
ベルリンの地下への入口は、街の北、ボルターンパークの隣にあります。現地のガイドさんは、そこに何が置かれどんなことが起きたかなどよく知っています。
ヒトラーは、ドイツ空軍以外の爆弾の使用を許さず、第二次世界大戦の参戦を拒否した後、特にベルリンに大きな建物を次々に建てました。
アンターウェルト博物館を訪れると、係の人が、ドイツの首都に建てられた3000以上の建造物の内部を見せてくれます。
そして地下へ足を踏み入れると、その大きな建物が戦争中にどのように使われたかを知ることができます。紛争の最後の日に多くの人が収容され、息が止まるような出来事がそのコンクリートの壁の中で起こったのです。
湿度が高く暗いトンネルのある爆撃されたこの街は訪れる価値が十分にあります。

トポグラフィ・オブ・テラー
ポツダム広場の側にあるのが、トポグラフィ・オブ・テラーという展示です。この展示は期限なく行われており、ゲシュタポ本部の恐ろしさやナチス親衛隊がどのようなことをしてきたか知ることができます。この展示の名前が、決して誇張されている訳ではないぐらいの出来事があったとだけお伝えしておきます。
ヒトラーのうす汚いシステムは12年もの間設置されていました。ナチス政権の敵として収容された者はここで何日間、何週間、何ヶ月間にも渡り尋問され続けました。そして彼らは拷問を受け、最終的には処刑されたのです。
新しい方の建物にも足を運び、全てのパネルを見て、時には立ち止まり何が起きたかをもう少し詳しく理解することも大切なことです。
トポグラフィ・オブ・テラーの博物館では、ベルリンの壁についても知ることができますよ。
トポグラフィ・オブ・テラーとは、先程お話したドイツ空軍が所属する航空省が運営する白い建物です。

トポグラフィ・オブ・テラー博物館
カイザー・ヴィルヘルム記念教会
ここには石碑や第二次世界大戦で大都市が爆撃された際の残留物が保存されており、その爆破によって亡くなった人々の悔しさが詰まっています。
ウィリアム皇帝の記念教会は、孫であるウィリアム2世が統治していた1891年から1895年にかけて建築された、ドイツでは最も大きなルター派の教会であるとされています。
しかしこの教会は第二次世界大戦中に起きた大きな爆撃によって破壊されました。
鐘楼はいまだに再建されていませんが、新たな現代風の鐘楼が隣に建てられました。中を見ることも可能ですが、特に念頭に置いておいてほしいのは、戦争中にどのようなことが起きてしまったかということです。
現在、全ての複合施設はベルリン市民・観光者にとって日常生活の一部となっています。独特な形をしたベルリン広場には古くからある教会の塔があり、かつては113メートルありましたが、現在は68メートルのみ残存しています。このことから、「Berlin Chopped Wheel(欠けたベルリンの車輪)」とも呼ばれています。

ホロコースト記念館
この記念館は、エーベルト通りにあるブランデンブルク門とポツダム広場の間にあります。
この記念館の設計をしたピーター・アイゼンマンは、理由は特にありませんでしたが、中にいても人に気づかれないような場所を作りたいと考えていました。それを考慮に入れ、一度足を踏み入れると迷路に迷い込んで悩んでしまうような設計をしました。
この地は、人々に落ち着きの場と深いメッセージを与えてくれます。

ベルリンにあるユダヤ教の博物館が、ドイツにおけるユダヤ教の歴史や文化を人々に普及するべく2001年に建設しました。
チェックポイント・チャーリー
第二次世界大戦に深く関わりのあるチェックポイント・チャーリーは、その名から想像できるかもしれませんが、当時の東ベルリンと西ベルリンの間の国境検問所として使用されていました。
ここは、特に海外から来る人や軍隊が国境を渡るために公式に使用されていた場所です。しかし全ての人が通ることを許されたわけではありませんでした。
チェックポイント・チャーリーは小さな小屋として再建され、中にはセメントが詰まっており、貼ってある大きなポスターには西を向くソビエトの軍隊と、東を向くアメリカの軍隊の様子が印刷載っています。

冷戦中に最もその存在を知られ、使用されていた国境検問所です。東ベルリンから西ベルリンへの1日だけ有効なビザもここで発行していました。
テンペルホーフ空港
この空港はナチス政権の象徴となった空港で、戦争中に計画された航空機などは全てここで発着をしていました。
第二次世界大戦以前には、世界中から人々が行き来する主要な空港として使用されており、街の中心部として栄えていました。
2008年に空港は閉鎖され、現在は地元の人々が集まる公園となっています。

ザクセンハウゼン強制収容所
ザクセンハウゼン強制収容所は、ベルリン郊外にあるオラニエンブルクの街にある、テロを起こしてしまったという恥ずかしく後悔すべき、冷酷な跡の残る場所です。収容所までは、地下鉄に乗ってザクセンハウゼンという同じ名前の駅で降り、そこからバスに乗るか、20分ほど歩くと到着します。正面玄関から中に足を踏み入れると、ドイツ語で「Arbeit Macht Frei(自由になるべく仕事をするのだ)」と書いてある看板が目につくかと思います。もともとこの収容所は、政権の方針に反対する人々を投獄するために造られ、考えを変え更生した何人かは出ることを許されました。しかし、長期間出られず生き地獄を経験する人も多く、収容所はだんだんと大規模化していきました。
